今更蒸し返したくはありませんが パート2
⑥ニューヨークタイムス 1938年1月4日
「アメリカ管轄の難民区で発見された元中国軍将校たち
上海 1月3日
南京安全区のメンバーとして南京金陵大学に留まっていたアメリカ人大学教授は、彼らが匿っていた元中国軍大佐とその6人の部下が発見されたことを知らされ、非常に困惑した。
教授らはこの大佐を難民区における実質上二番目の権力者にすえていた。南京戦からの退却の際、軍服を脱ぎ捨てていた将校らは、その後、大学のなかに潜んでいたのを発見された。日本軍に発見された後、その身分を明かした彼らは6挺のライフル銃、5挺のリボルバー式拳銃、それと分解したマシンガンと弾薬を建物内に隠し持っていた。
アメリカ人および他の外国人の前で告白したところによると、将校らは市内で略奪を働いていたという。またある夜などは少女を暗がりに連れ込んだこともあったという。そればかりでなく、翌日それが日本兵の仕業だったと周囲に吹聴したことも白状した。逮捕された将校らは日本軍の軍律に基づき裁かれるだろう。おそらく処刑されるはずだ。」
⑦ 同盟通信 細波孝無電技師
「上海で昼にお金を使って働かせていた捕虜が夜になると謀反を起し、営舎に手榴弾を投げたり火をつけたりしたことがありました。その時、火事になり私もマントが燃えたことがありました。また、便衣兵が手榴弾を投げたのを見つけて殺しています。ですから市民の服を着て死んでいる者もいました」
(解説)
日本軍が捕虜を処刑しなければならなかった理由がこの資料からも読み取れる。中国兵は捕虜になっても隙をみせたら襲ってくるのです。
⑧ ラーベ日記12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」
(解説)
南京が陥落後、支那兵は平服に着替え便衣兵となり、一般市民が避難している安全区に逃げ込みました。安全区はドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が管理し、中立非武装の地帯です。ところがこともあろうにジョン・ラーベ自身が支那の高級将校を匿ったのです。
⑨チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」
これらの資料から南京で報告されてた日本兵の非行というのはほとんど便衣兵か民間の不逞支那人らの仕業だと明らかになるからです。日本兵がこれらの行為を行った記録もあり、彼らは軍規により厳しく処罰されている。
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