日本の成り立ち 1

日本最古の歴史書は古事記、日本書紀である。この記紀によると最初に天から天下った皇室の祖はニニギノミコトだった。記紀を中心にさまざまな情報を入れながら、私なりに日本の成り立ちに迫っていきたい。

 まずはニニギノミコトが天下ってから、どこに居住地を定めたのかを考えていきたい。

 

古事記から引用

アマツヒコホノニニギ・・・・・竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。

 そこで天の忍日(アメノオシヒ)命、天つ久米(アマツクメ)命の二人が、天の石靫(あめのいはゆき)を背負い、頭椎の大刀(くぶつちのたち)を腰につけ、天の波士弓を取り持ち、天の真鹿児矢を挟み持ち、先導役として仕えた。さて、そのアメノオシヒ命、これは大伴連等の祖神である。アマツクメ命、これは久米直等の祖神である。

 そこで言うには、「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の御前(かささのみさき)に真来通りて、朝日のまっすぐに射す国、夕日のよく照る国である。なので、ここはとても良い土地である」と言って、底つ石根に、宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて住むことにした。

 アマツヒコヒコホノニニギ命は、笠沙の御前で美しい少女に会った。

 そこで、「誰の娘か」と尋ねると、答えて言うには、「オホヤマツミ神の娘、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、またの名を木の花佐久夜比売(コノハナノサクヤビメ)と言います」と言った。

 そこで、その父オホヤマツミ神に尋ねるために遣いを出すと、大変喜んで、その姉のイハナガヒメを副えて、百取の机代の物(ももとりのつくゑしろのもの)を持たせて、差し出した。

 ところが、その姉はとても醜かったので、見て恐れて送り返し、ただその妹のコノハナノサクヤビメだけを留めて、一夜婚をした。

 さて、後にコノハナノサクヤビメがやって来て言うには、「私は身篭り、今産む時期になりました。この天つ神の御子は、私事として産むべきではありません。そこで申し上げます」と言った。

 そこで言うには、「サクヤビメは一夜で身篭ったのか。これは私の子ではあるまい。きっと国つ神の子である」と言った。

 そこで答えて言うには、「私の身篭った子が、もし国つ神の子であるならば、産む時に無事ではないでしょう。もし天つ神の御子であるならば、無事でしょう」と言って、すぐに戸の無い広い御殿を作って、その御殿の中に入り、土で塗り塞いで、産む時になって、火をその御殿につけて産んだ。

 そこで、その火が盛んに燃える時に生んだ子の名は、火照(ホデリ)命、これは隼人阿多君の祖神である。

 次に生んだ子の名は、火須勢理(ホスセリ)命である。

 次に生んだ子の名は、火遠理(ホヲリ)命。またの名は天津日高日子穂穂出見(アマツヒコヒコホホデミ)命である。

日本書紀から引用

 さて、天津火彦瓊瓊杵尊(あまつひひこににぎのみこと)火は日向の槵日の高千穂峰に降下されて膂宍の胸副国を、ずっと丘続きのところを国を求めながら通過して、渚に接した平地に降りたたまれてそこでその国の首長事勝国勝長狭を召しよせてさ尋ねられた。すると彼は

「ここに国がございます。勅のままに、どうぞよろしいようにお取り計らいくださいますように」

と申し上げた。そこで皇孫は宮殿を建てて、ここに御滞在になった。

その後海浜においでになったとき、一人の美人を見かけられた。皇孫が

「お前は誰の子か」

と尋ねると、お答えして

「私は大山祇神の子で神吾田鹿葦津姫と申す者でございます」

と申し上げた。また、

「また私の姉にイワナガヒメがおります」

と申し上げた。皇孫が、

「余はおまえを妻にしようと思うが、どうか」

と仰せられると、

「私の父大山祇神がおります。どうか父に御下問くださいますように」

と答えられた。皇孫はそこでこんどは大山祇神に向かって、

「余はおまえの女子に会ったところだ。余の妻にしようと思うが、どうか」

と仰せられた。そこで大山祇神は二人の女に 百机の飲食物をもたせてたてまつった。ところが皇孫は、姉の磐長姫を醜いと思われて、お召しにならずに返してしまわれた。他方、妹の木花開耶姫は一番の美人と思し召されて、お召しになって 幸 されたのだが、その結果姫は一夜にして妊娠された。ところで磐長姫は、皇孫がお召しにならなかったことを非常に恥じて皇孫にのろいをかけられ、

「もしも天孫が私をお退けにならないで、お召しになっておられたら、生まれる御子は寿命が長くて、磐石のようにいつまでもこの世に長らえることがおできになったであろうに、いま、そうなさらないでただ妹だけをお召しになった。だから妹の生む御子の生命はかならず木の花のように散り落ちることだろう」

と申された。

〔一説では、磐長姫が恥じ恨んで、唾をはき、泣いて申されるには、

「この世の青人草は、木の花のようにうつろいやすく、生命おとろえよう」

と言った。これが世の人の短命の由緒であると伝えている。〕

こののち、神吾田鹿草津姫は皇孫にお目にかかって、

「私はいま天孫の御子をみごもっておりますが、勝手に生スまつってはならないと思い、おうかがいいたします」

と申し上げた。皇孫は、

「いくら天神の子でも、どうして一晩で妊娠させることができょうか。それは私の子ではないのではないか」

と仰せられた。そこで木花開耶姫はいたく恥じ恨んで、出入口のない部屋(産室)を作って言うには、

「私のみごもった御子が、もし他の神様の子であったら、かならず死産になりましょう。もし本当に天孫の御子であったら、かならず丈夫にお生まれになりましょう」

と言って、その産室の中に入って火をつけて産室を焼いてしまわれた。その炎の出はじめのときに生まれた御子を火酢芹命 と申し上げる。つぎに火の盛んなときに生まれた御子を火明命と申し上げる。つぎに生まれた御子を彦火火出見尊、別名火折尊 と申し上げる。

御子が火進命、 ー別の説では火酢芹命―つぎに炎が静まるころ生まれた御子が火折彦火火出見尊である。この三はしらの御子はすべて、火も害なうことができなかった。母神もまた、すこしもけがをしなかった。ところで竹の刀でその生まれた子の臍の緒を切ったのだが、その棄てた竹の刀がついに竹やぶになった。それでその地を竹屋というのである。また神吾田鹿茸津姫はト定田(神に供える稲を作るために吉凶をトして決められた田)を作られたが、この田の名を狭名田といった。この田の稲で 天甜酒をかもしておあがりになり、また浪田の稲で御飯をたいておあがりになった。

まずはニニギノミコトがどこに定住したのかを考える。なぜかと言えば、特定が非常に容易だからだ。

ニニギノミコトはどこに定住したのか。古事記によるとこの地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の御前(かささのみさき)に真来通りて、朝日のまっすぐに射す国、夕日のよく照る国である。

古事記によると笠沙の御前(笠沙の岬)とある。またニニギノミコトがみそめた娘は神阿多都比売(カムアタツヒメ)=阿多の都の姫であった。都に関しては解釈が分かれるところだろうが、重要なのは「阿多」の方である。

日本書紀によると娘は「神吾田鹿葦津姫」となのっており、吾田の姫だと分かる。

笠沙の岬がある阿多、吾田と言えば日本広しと言えども、薩摩国阿多郡しかない。阿多郡(あたぐん)は、鹿児島県(薩摩国)にあった郡。明治初年時点では阿多郷の中に新山村、浦之名村、白川村、花瀬村、宮崎村、中津野村があり、これは現・南さつま市の広大なエリアを占めている。

さらに日本書紀には

竹の刀でその生まれた子の臍の緒を切ったのだが、その棄てた竹の刀がついに竹やぶになった。それでその地を竹屋というのである。また神吾田鹿茸津姫はト定田(神に供える稲を作るために吉凶をトして決められた田)を作られたが、この田の名を狭名田といった。

コノハナサクヤヒメの出産のシーンであるが竹の刀でその生まれた子の臍の緒を切ったので、その棄てた竹の刀がついに竹やぶになった。それでその地を竹屋という記述がある。これが非常に重要な情報である。

薩摩国阿多郡には竹屋神社がある。県内に竹屋神社はいくつかあるが、ここが本社だと思われる。重要なのは竹屋の地名を残している事である。

これだけ証拠はあれば、ニニギノミコトの定住地は阿多郡笠沙や竹屋(現在は地名は残っていない)で間違いないだろう。

そしてさらに興味深いのは、竹屋神社は元々鷹屋大明神だったという事である。竹屋神社も現在でもたかや神社と呼ばれている。ニニギノミコトの息子であるホホデミノミコトが葬られたのは高屋山陵とされている。この高屋とはここ竹屋の事ではないだろうか。となると、ホホデミノミコトの御陵もこの辺にあると考えられる。

現在、高屋山陵は鹿児島県霧島市溝辺町麓の標高390mの神割岡の頂にある。この高屋山陵は明治7年に明治政府によって決定された。根拠はかなり薄弱と言わざるをえない。

『古事記』に「御陵者、即在二其高千穂山之西一也」とあり、意味は「御陵は高千穂山の西にある」というところだ。また、『日本書紀』に「葬二高屋山上陵一」(一、二は返り点)とあり、意味は「高屋山上陵に葬られた。」という事だ。『延喜式諸陵式』には「日向高屋山上陵、彦火火出見尊陵、在二日向国一、無二陵戸一」とあり、意味は日向の高屋山上陵は彦火火出見尊の陵であり、日向国にあるが、陵戸(世襲で陵を守る人)はいない。」という意味だ。

明治政府、および明治政府に全面協力した薩摩藩はこれだけの手がかりで高屋山陵を探した。そして、高千穂峰の西に神割岡がありその近くに天津日高彦火火出見尊を祀る「鷹大明神社」(鷹屋(たかや)神社)があって、正保6年(1649年)の棟札に鷹屋大明神と記されていたことから「鷹」を「高屋」の「タカ」と結びつけ(鷹屋=高屋である)、たったこれだけの理由で高屋山陵にしてしまった。

しかし、鷹屋大明神の本社はどう考えても阿多であり、阿多郡の竹屋が最有力候補だ。現に竹屋神社の裏にはホホデミノミコトの御陵がある。実際に、現地に赴き、御陵を確認して驚いた。まず、御陵は岩石構造物だった。岩石構造物というのは私の造語で岩石を組み上げて作ったものという意味だ。こういう物には磐座(いわくら)、磐境(いわさか)、ドルメン、メンヒル、巨石記念物、支石墓など様々な呼び名があるのだが、私はこの区分が十分だと思えないので、あえて岩石構造物と呼び、岩石が人力では動かせない巨石であった場合、巨石構造物と呼びたい。私が何にこだわっているかと言えば、人工的に組み上げられているという事だ。

以下が竹屋神社の岩石構造物である。

なにより驚いたのは、写真では分かりにくいし、長年の劣化により、ばらけているが、主となる岩石構造物のまわりに成人男性2人でも動かすのが困難だと思われる岩石が円を描くように並べられている事である。つまりはストーンサークルなのだ。日本全体を見渡せば、ストーンサークルは様々な地で見られる。しかし、その正体はこれだけ考古学が発展した現代でもはっきりした事はわかっていない。

少なくとも、ホホデミノミコトの御陵候補地にストーンサークルがあるのは大事件と言えるのではないか?

実は私の中では、日本古代史の再構築はあらかた出来ていて、少しづつ発表しているのだが、全く日の目を見ていない。日の当たらないアマチュア古代史家、逆襲のプロローグとしては悪くない滑り出しだと思う。

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