紀伊国の須佐神社

非常に興味深い事に実は須佐神社は他にもあるのだ。一つは和歌山県有田市千田1641に鎮座する須佐神社で祭神は素戔嗚尊 (すさのおのみこと)。ここで当然の疑問としてなぜ紀伊に須佐があるのかと考えてしまう。意外な事にその答えは古事記の中にある。『古事記』の「根の堅洲国」訪問の段では、大穴牟遅神(大国主)が「須佐能男命の坐します根の堅洲国」に参向するに際して、まず「木国」(紀伊国の古名)を目指したと記載されている。すなわち、紀伊は根の堅洲国(根の国)への入り口として想定されており、根の国に坐す「須佐能男命」と入り口の紀伊の「須佐神」との関係性が見られる。松前健氏は、全国に展開するスサノオ信仰の原郷が紀伊須佐神社であり、海の彼方の常世国としての根の国から豊穣をもたらすため、時期を定めて来訪するのが本来の神格であろうと推測している。

少し脱線するが和歌山には「補陀落渡海」という捨身業が伝わっている。捨身業で一番わかりやすいのはわずかな木の皮や木の実を食べ最大限肉体をミイラに近づける「木食修行」、そして生きたまま地下の石室に入り読経をしながら悟りの時を待つ「土中入定」だろう。

「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいう。
「補陀落渡海」とは、補陀落を目指して船出することなので「土中入定」よりは明るい響きなのだが、修行の悲惨さは似たり寄ったりである。
 
南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出る。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。要するに行者はそのままもがき苦しんで飢え死し、ミイラになるのである。個人的見解を付け加えさせてもらうなら、こんな馬鹿げた行で自分であれ、他人であれ、救われるはずがない。泥をすすってでも生き延びて、人のためになる事をする方がよほど良いと私は思う。

『熊野年代記』によると、紀伊の那智勝浦の補陀落渡海は868年から1722年の間に20回実施されたという。

なぜ、紀伊の那智勝浦の補陀落渡海を取り上げたかと言うと、古代から紀伊半島沖に極楽浄土があると言う概念があった事を示すためである。つまり少なくとも古事記成立時には紀伊は根の堅洲国(根の国)への入り口という概念は存在したと考えられるのである。

コメント