出雲井神社古伝からスサノオの正体にじわじわ迫る。

ここでスサノオの正体に迫っておきたい。まずは出雲井神社古伝から見てみよう。出雲井神社古伝(富氏口伝)によるとスサノオは実在の人物である。そして元々の出雲族ではない。スサノオと出雲族はかつて戦い、スサノオが勝利し、やがてスサノオは出雲族と混交したという。

出雲井神社古伝によると出雲族は北方を経由して日本に来た(BC2000年頃と推定される)ドラヴィダ人で、ゴビ砂漠を北に進み、シベリアのアムール川を筏で下って、津軽半島に上陸し、北海道、東北、出雲へ行った。

南洋諸島から海流に乗ってやって来た人々や、その他の渡来人と共に縄文人を形成したと考えられる。縄文人の一大勢力が出雲人だと言えるだろう。事実、アイヌの信仰と出雲井神社古伝には共通点が見られる。

出雲族の真の祖神である出雲の大神とは、クナトノ大神(=熊野大神=道祖神=サエノカミ)だった。クナトの大神は元々、出雲の熊野大社で祭られていた。

イズモでは、主副の両国王が同時に枯死した事件を嫌って、両王家の分家が出雲人の約半数を連れて、ヤマト(奈良地方) へ移住した。そのとき岐神(サエノカミ)信仰をヤマトとその周辺に伝えた。おそらくこの時に紀伊国にも岐神信仰が伝わり、紀伊国の熊野大社の元になったと思われるがはっきりしない。紀伊国の熊野信仰の発祥は日本古代史において非常に重要な出来事なので、研究を継続したい。

東出雲人はセッツ国三島の人々の協力も受けて、葛城山の東麓(御所市)を開拓した。そして、事代主をまつる一言主神社や鴨都波神社を建てた。賀茂氏にまつわる神社は島根県(出雲国)と奈良県御所市(大和国)に集中している。この事だけとっても賀茂氏が出雲国から大和国に移住したというのは容易に想像できる。

富家の事代主の御子たちが、サイノカミを奉じて、ヤマトや伊勢に移住したことを記念し、富家がイズモに社を建てた。それが出雲井神社である。その後で、出雲に里帰りした人がいた。かれらが出雲大社の裏山に、三歳社を建てた。

富氏は熊野大社で神事を行なっていたが、出雲大社の敷設で中心的な役割を果たし、拠点を出雲大社に移した。神魂神社は熊野大社と関わりが深く 、国造世襲に関わる火継の神事も元は熊野大社で行なわれていた 。

出雲大社創建の年代は富氏の伝承では霊亀 2年 ( 7 1 6 )年とされている 。出雲国造が新任時に朝廷で奏上していたとされる出雲国造神賀詞が現代にまで伝承されているがこの中に 「大穴持命 (大国主大神 ) 」 「杵築宮 (出雲大社 )に静まり坐しき 」と記載がある 。この儀式は平安時代前期に行われたと考えられているが ,そう考えると富氏の伝承は全く正しいように思える 。

やがて ,神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と出雲大社の関係が深まり ,鰐淵寺は杵築大社 (出雲大社 )の神宮寺も兼ねた 。鰐淵寺を中心とした縁起 (中世出雲神話 )では ,出雲の国引き ・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから ,中世のある時期から 1 7世紀まで出雲大社の祭神が素戔嗚尊であったと考えられる 。

1 7世紀の寛文年間の出雲大社の遷宮時に出雲国造家が神仏分離 ・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ ,寛文 4年から寛文 5年にかけて仏堂や仏塔は移築 ・撤去され ,経蔵は破却された 。これに併せて祭神はスサノオノミコト (素戔嗚尊 )から ,古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復したという 。ということは仏教の祭神がスサノオノミコトであったことになる 。

ここまでスサノオに関連する出雲井神社古伝について書いてみた。さらにスサノオについて分析を続ける。

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